- 2025/04/02
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初めまして!
- クーちゃんさん
- (2018/05/29 15:48)
- [コメントを編集する]
鯖世傘晴さまのご考察は大変見事であり、戦隊や宇宙刑事シリーズをこよなく愛しておられる方ならではの思いにあふれたとても素晴らしいもので、非常に感服いたしました。
>オープニングが私には2番手の竹本弘一監督の演出にしか見えなくて
このご意見には私も全く同感です。カット別にもう少し詳しくチェックすると・・・
・車5台・バイク2台並走爆破 東松山ロケ #1(石井監督)同時撮影か?
・風見カースタント・セスナ #1(石井監督)流用
・緒方マシンガン・拳銃 青梅ロケ・大泉 #20(吉川監督)同時撮影か?
・南・萬年・ミチ 登場・アクション 大泉 OP用撮影
・ローザ 登場 新宿ロケ OP用撮影
・冬木 ビル屋上登場 場所不明 OP用撮影
・ミチ・ローザ レオタード 大泉 OP用撮影
・スタント2人・ローザ レオタード 新宿ロケ OP用撮影
・冬木カースタント・ライフル 場所不明 OP用撮影
・風見スキー滑走 「ザ・ボディガード」#10(永野監督)流用
・萬年・ミチ壁登りスタント 大泉 #2(竹本監督)同時撮影
・南壁登り 大泉 #2(竹本監督)同時撮影か?
・風見・萬年・ミチ・冬木波止場を走る 清水港ロケ #20(吉川監督)同時撮影か?
・悪役軍団登場 吉見ロケ #1(石井監督)同時撮影か?
・7人登場・対峙 大泉 OP用撮影
・大型船から風見・萬年・ミチ他4人飛び込み 清水港ロケ #20(吉川監督)同時撮影か?
以上の分析が正しければ、大半のカットは竹本監督によるもので、
石井・吉川監督のカットを合わせて、編集された公算が高いと思われます。
また、ここで注目したいのは清水港ロケのシーンです。
#20は#1とほぼ同時期の1975年8・9月の撮影であると思われますが、本編にはローザ・草鹿が未登場、緒方も後日の別撮りっぽく、
大型船からの飛び込みシーンを撮るために、その3人を除いたメンバーで静岡のホテルタイアップロケに急遽臨んだと思われます。
鯖世傘晴さまのご意見はいかがでしょうか?
追伸
- クーちゃんさん
- (2018/05/29 16:19)
- [コメントを編集する]
『ザ☆ゴリラ7』は「ザ・ボディガード」に引き続き、1974年10月から放送する予定で企画が進行していましたが、NETの腸捻転解消などの諸事情から放送が半年延期されたとのことです。
千葉真一さん、志穂美悦子さん共に多数の映画と撮影時期が重なっていましたが、この放送延期により出演機会が充分に得られたわけです。
(情報元:1975年3月3日 日刊スポーツ記事より)
吉川進Pも1975年3月までの予定でプロデューサーのスケジュールを組んでいたが、放送延期のため10話分の指揮をとり終えられたところで、「秘密戦隊ゴレンジャー」に移行されたのではないか?
とも考えられます。
>この番組にも権力者が犯人のパターンはあったような
確かにそうですね。
P交代後の作品では、#8・#13なんかは完全に代議士の汚職を暴く話でしたし、#10も産業スパイの壊滅で暗に大企業を批判しています。
吉川進Pの#23も弁護士が大麻密売組織のボスという話だったので、この時にかなりいやな思いをされたのかもしれませんね。緒方が大活躍のアクション編にも関わらず、放送が延びたのはその辺りの調整に時間がかかったからとも思われます。
クーちゃんさん へ
それも大変有益で、素晴らしい情報や分析までありがとうございます!
オープニング映像、竹本監督による演出ではと、同じようなことを考えていることがいらっしゃるとは!
また各シーンの分析は、まさに脱帽です。
確かに、セスナ等本編で見たシーンも入っているなとは思っていたのですが。
クーちゃんさんの考察を加味すると、
石井監督の映像も入れて竹本監督が仕上げた映像に、
足りない分を、おそらく次の組の吉川監督のロケで補ったという線が濃厚でしょうか。
またスポーツ紙の1974年10月放送開始だった情報も大変有益なものですね。
確かに「非情のライセンス」が第1シーズンが延長で1年、
第2シーズンもたった半年を開けて開始され、2年半も放送したというのが
当時のこの枠としては割と異例なことなので、
その影響もあったのかもしれませんね。
番組からも、画面から分かる季節に、
順番を大きく入れ替えても支障がなかった点や、
放送第5話『大泥棒弟子入り志願』で
設定が2月1日前後で、撮影も慣習上おおよそこの時期なのかと思うんですが
放送よりだいぶ早い時期から撮影しているのはわかりますよね。
思えば、権力者が犯人のは、渡辺洋一Pは「非情のライセンス」で
毎週のようにやっているので、出来ることは出来るのでしょう。
ただクレームは今も昔も個別に来るものなので、
視聴者からは特に差がなく思えても、裏では結構差があった可能性もあるかもしれませんね。
もしかしたら、渡辺洋一Pの方がそこら辺の処理が上手かったのかもしれません。
また「ゴレンジャー」は関連書籍を読むと、
1974年末に企画書の初稿が出来あっがっていて、
その頃から吉川進Pは参加していたようなので、
確かにある程度はじめから、移動する前提でのスケジュールだったのかもしれませんね。
ただ「ザ☆ゴリラ7」立ち上げよりは、だいぶ後ですし、
「ゴレンジャー」を別のPにすることも出来たと思うので、
その点はやはり吉川進Pの思いによる部分があったのではないかと思います。
(追伸 本記事、言葉のおかしい点など少し直しました)